医学専門 校閲者・翻訳者/医療啓蒙
医学翻訳の誤訳例
翻訳会社の訳文がひどい理由も紹介
医学・医療翻訳: 翻訳会社の訳文
医学翻訳に従事する中でみかけた迷訳、珍訳などを紹介します。参考資料として翻訳会社から受け取った訳文例、実際に医療関連メディアでみかけた誤訳例などをふまえて紹介しています。翻訳会社選びを間違えるとこんな訳文を受け取るはめになります。
翻訳会社の訳文の現状は、翻訳会社ホームページの訳文見本を読んでも分かります。和文英訳の見本が多いですが、英文読解力のある人ならば、原文と訳文を対比して読んでみると、翻訳会社の能力を判定できます。
ここでは主に英文和訳の誤訳例を紹介します。英訳の誤訳については総論的な内容だけを述べています(下方を参照)。
● 急性腹部疾患(acute abdomen)
正しくは「急性腹症」、すなわち急激な腹痛で発症する一連の疾患です。「急性」「腹部」=急性腹部疾患と思ったらしいです。
● 急性膵炎の論文で「高アミラーゼ血」「低カルシウム血」
「…血症」と書くか「血清アミラーゼ値上昇」などと普通は書くところを上記のように訳した会社がありました。
● 脳卒中の文章で
transient ischemic attack 「一過性の虚血発作」
どうやら「一過性脳虚血発作」と病名を知らずに、辞書で調べた単語の意味をつないで上記のように訳したようです。このように翻訳者の医学知識不足が理由で、文脈から意味を考えて適正な医学用語に置き換えられない例はよくあります。医学書でも大学の先生が他の診療科の英語表現を知らず、英語の文献を参考に日本語原稿を書くときに誤った訳語を用いて引用することもあります。
● 心房心室ブロック
文脈からは「房室ブロック」らしいのですが、atrioventricular blockというのを医学知識のない翻訳者が適当に訳したようです。
● 予後の「預言者」
予後の予測要因という文脈で出てきたPredictorという語句を「預言者」と訳した人がいました。この例では翻訳者への報酬が700円/訳文400文字程度の仕事らしいのですが、さすがにここまで低い低報酬では変な訳文が出てきます。この企画では後に修正に手間取り、修正費用を増額する結果になりました。最初に費用を低く抑え過ぎることの弊害がよく分かる例でした。
●肺二次リンパ小節
:原文を読むと nodule(結節)というのを「二次リンパ小節」と訳しているようでした。肺の画像検査上の結節性病変の鑑別という内容でしたが、ずっと「リンパ小節」と誤訳されていました。
●「石綿肺では肋膜に胸膜上腫瘤がみられる」
肋膜は胸膜のかなり古い表現です。今は肋膜なんて表現は使わないですし、「胸膜上腫瘤」というのも「胸膜斑」「胸膜プラーク」と言われる病変を訳したもののようでした。
●心房細動など心血管疾患の文脈で stroke (発作)
言うまでもなく「脳卒中」という意味でstrokeという語句が用いられています。医学知識があれば文脈からは「脳卒中」なのが明らかなのに、辞書に頼って訳して「発作」と書いていました。strokeに限らず辞書には適切な訳語が書かれていないことがあります。
実はこの例、私が「脳卒中」と訳したのを納品先の社内翻訳者が「発作」と誤って修正し、最終的に監訳者(医学部教授)が「脳卒中」に修正したものでした。
●翻訳会社、和文英訳の全体的傾向
翻訳会社の訳文サンプルをみていて感じた問題点、少ないながらも実際に英訳や訳文校正を引き受けて感じた点を述べます。全ての会社に該当するわけではありません。あくまで私の個人的印象なのをお断りしておきます。
関連内容:翻訳見本、英文校正見本参照時の確認事項を紹介しています。
・native speaker校正の限界
年齢については"yeras of ageなど医学論文特有の表現がありますが、私の英訳を英語を母国語とする人が校正する際、「歳」に相当するそれら年齢の単位を"years old"に直したり 、さらには年齢単位を省略してしまったことがあります。図表ではなく本文中で yrsのような短縮形にしてしまう例もありました。native speakerの英文校正だからといって安心はできません。俗語的表現に書きかえられてしまう恐れがありますので、納品物を自分でも確認する注意が必要です。また日本語原文を読む能力のない外国人だと、訳文である英文だけを見て校正をするので、違う意味の文章に書き換えられてしまうおそれがあります。
★関連事項--英文校正会社
「翻訳」ではなく、顧客が自作した英語原稿を校正している会社があります。翻訳会社が行っていることも、英文校正専門の会社もあります。英語を母国語とする人が主体の会社もあるようです。それらの会社の校正見本をみていて感じたのは、「もとの英文よりはよくはなっているが、日本人の自分からみても不十分な修正」ということです。もともとの原稿が悪く、きちんとした文章にしようとすると原形をとどめず「校正」にならないかもしれません。あるいは校正者が内容を理解しにくい場合があるのかもしれません。英文校正だけを頼むときには、英作文がある程度きちんとできていることが大前提です。日本語で書いた原稿を日本人に校正してもらうにしても、他人が読んでわかる程度には文章が仕上がっていないと無理ですが、英文校正でも同様です。
・case と patientの混同
翻訳会社を特定できない例を一つだけ挙げると、patient /case の区別をできていない翻訳見本を出している会社がありました。 日本語では「症例」と「患者」が同義語としてよく用いますが、英語ではpatientとcaseは区別します。caseは患者例なのです。
・簡潔な英文にできない
簡単な英文で表現できるのに、表現力不足でだらだらと長い訳文になってしまう例があります。
・日本語原文の具体的意味を考えない直訳
これも直訳的と言えるのですが、文脈から日本語の意味を理解できずに、翻訳ソフトのように日本語を英語に直してしまう場合があります。
<避けるべき日本語原文表現>
「検討を加えた」→文脈からは「検討した」という意味なのに文字通りに「加えた」と訳す。
「比較検討した」→文脈からは「比較した」「介入後の変化を調べた」という意味ならば、そのように原文を書いておく。
「検討を試みた」→「検討した」という意味なら単純にそう書かないと、文字通り「試みた」と訳されてしまう。
「この症例では…」→「この患者では」という意味なら「症例」という原文にはしない。caseと誤訳される。簡潔明瞭にはcaseとpatientの区別は説明しにくいが、「具体的な患者例」「患者件数(何件の発生数」)に対してcaseを使うかが一つの目安。
・業界特有の表現の知識不足
基本的な専門用語、医学関係特有の表現を分かっていないことがあります。直訳したり、俗語的になる、無理に知っている単語をつなげて作文するのでだらだらと長い文になるといった問題が生じます。
・読解力不足
単純な不注意で、日本語原文の意味を勘違いして誤訳することがあります。例えば話の前後関係からは「検討した」という意味の「検討を加えた」を「検討を追加した」と訳すことがあります。これに関しては日本語レベルで業界用語、業界特有の表現を知らないことが原因なのかもしれません (翻訳講座の受講のみで医学関係の学歴、職歴のない翻訳者など)。
・複数形と単数形
文脈上からは複数形がよいと思われるのに単数形になっている例があります。日本語ではあまり単数/複数を明記した作文をしないので、翻訳会社に英訳を頼むときは注釈など工夫が必要です。
もっとも、和文英訳の場合、日本語原文の意味が不明瞭で英訳しにくいことはあります。意味の不明瞭さ以外にも、おそらく書き間違いと思われる個所が原文にあったりもします。依頼人と翻訳担当者が直に密接な連携を取れる場合はともかく、そうでない場合は、他人に翻訳を頼むことの限界を理解した上で翻訳会社を利用する必要があります。
<翻訳会社の訳文がひどい原因>
・会社として利益を出すため、下手な翻訳者に低料金で作業させる。優秀な人は作業内容に比して低すぎる報酬を嫌がり、翻訳業界に入って来ないか、翻訳者をやめていく。
・翻訳者にしてみれば翻訳報酬が低すぎれば、生計を立てるために工夫する必要がある。医薬専用の翻訳ソフトを使うか、さらには無料のネット上翻訳機能を使い、その後の手作業の修正はほとんどしないで翻訳会社に訳文を納品するなどする人が出てくる。そうして受注量を増やし、収入を確保する。当然、訳文の質は落ちる。
・優秀な翻訳者が翻訳会社にいなければ、翻訳者募集に際して、いわゆるトライアル(訳文作成テスト)の採点を、翻訳能力の低い人がすることになる。適切な訳文を書くと誤訳と判断され、優秀な人材は不合格となる。優秀な人材は翻訳会社に登録されにくい。しかも翻訳会社はそのことに気づいていない。
・翻訳会社は翻訳メモリソフト、翻訳支援ソフトでの作業を要求することが多くなっている。その結果、支援ソフトを使うからと翻訳者報酬の低下が進み、能力の低い人材しか残らない。支援ソフトを使うとかえってやりにくいという優秀な人材は翻訳会社とは取引できない(もちろん支援ソフトが有用な場合はある)。
・翻訳者にしてみれば、翻訳会社に登録されても仕事が一定間隔で回ってくるわけではない。お金が必要だから仕事をしたいのに、翻訳会社との取引は収入源にはならない。これでは能力の高い人がいても、人材確保が困難となる。
●翻訳会社の訳文がひど過ぎてお困りの方は、翻訳会社の利用方法に関する注意事項をご覧ください。
●私自身が翻訳作業に協力することもできます。翻訳会社のだめな訳文のチェック、修正も行っています。